人と人、地域と地域をつなげる 新しい「横浜」として

2.オモテの横浜から情報を発信するプラットフォーム

■クリエイティブデザインセンター

岩谷 なぜシェアオフィスなのか。きっかけは2009年に開催された横浜開港150周年イベント「Y150」です。

「Y150」は横浜市をあげてのイベントでした。みなとみらい21や新港地区周辺をベイサイドエリア、よこはま動物園ズーラシア周辺をヒルサイドエリア、横浜駅周辺から山下・山手地区周辺の市街地をマザーポートエリアの3つに分けて開催、最終的に700万人を超える総入場者数を記録しました。私も実際にイベント会場に足を運んだのですが、参加しているうちに、もっとこうできるな、ぼくだったらここは別なやり方をするな、と、いろいろと刺激を受けたんです。もちろん、市の方々が大変な努力を重ねられていたことはわかっていますが、純粋にイベントだけを取り出してみたとき、「自分なら」という思いが湧いてきた。

ただ、やりたいと思っても、思っているだけではかないませんし、名乗りを上げたとしても、実績や信頼がなければ任せてもらえません。もし「Y160」が開催されることになったとして、そのときに自分に声がかかるようにならなければいけない。どうすればそうなれるかを考えたときに、情報の発信ができる場をもつことが大事だと考えました。

声がかかるのを待つのではなく、自分たちから情報を発信して提案、行動していく。その過程でセルディビジョンも成長していけます。そのためには高い意識をもった、プロフェッショナルな仕事をしているクリエイターに集まってもらって、お互いに研鑽を重ねて、ときに協働して動いていけるプラットフォームを持てたら——そうした思いで、クリエイティブデザインセンター(CDC)というシェアオフィスをはじめたんです。

■横浜のオモテとしての「裏横浜」

—— 情報の発信地をもつことで外に訴えかけていくというのはとても素晴らしい考えですね。ところで、ひとつ気になっていたことがあります。「裏横浜」という名称です。これは岩谷さんがつけたのでしょうか?

岩谷 いえ、私ではありません。[urayoko net]にご参加いただいている「ビストロ・フレッシュ」と「リストランテ・リアル」のオーナーの入交功(いりまじり・いさお)さんという方がいらっしゃいます。入交さんは1999年に「ビストロ・フレッシュ」をオープンされたんですが、その入交さんが「自分一人じゃなく、いろんなおもしろい店が集まって、いい街をつくっていきたい」という思いで「裏横浜」という呼び名を使いはじめたのが最初です。その後2002年に入交さんが『横浜ウォーカー』の取材を受けて同誌に「裏横浜」という言葉が掲載されたことで広まりました。

—— ちょうど90年代に東京原宿に「裏原宿」という名称が生まれて定着していった直後ですね。

岩谷 入交さんが「裏横浜」に込めた思いも引き継いでいければと思っています。ただ、歴史的には「裏横」はじつは表玄関なんですよね。

—— ?

岩谷 平沼商店街に通っている道路は、かつて横浜道といったんです。江戸時代の終わり頃の1858年に日米修好通商条約が結ばれて、翌1859年に神奈川を開港することなったんですね。いまの神奈川区神奈川本町付近です。ここは東海道の宿場街として栄えていて、神奈川宿と呼ばれていました。そんな繁華街に港をつくって、200年以上続いてきた鎖国状態をやめて、いきなり海外の人を招き入れたらどうなるか予測がつかない。そう思った徳川幕府は、神奈川宿の対岸にあった横浜村を開港することにした。横浜村はいまの関内付近ですね。だから、横浜はこのとき神奈川になったんです。

神奈川になったとはいっても、当時、神奈川と横浜の間には道らしい道がなくて不便だったといいます。そこでこの区間に道をつくることにした。それが平沼を通って、戸部、野毛を抜けて、今の馬車道にいたる横浜道でした。

—— はじめて知りました。

岩谷 横浜駅も、もともとはいまの桜木町駅にありました。そのあと市営地下鉄の高島町のあたりに移って、さらにいまの位置に移動しました。だから、いまの横浜駅は3代目ということになります。

「裏横浜」は裏といいつつ表でもあるんです。そういう意味でも、この地域は本当に歴史のある街ですし、いまの時代に新しい横浜の姿を見せてくれる力があると思っています。