人と人、地域と地域をつなげる 新しい「横浜」として

1.幸福な勘違いからはじまった会社経営

■西と東の横浜

—— いま日本各地で地域コミュニティの活性化がさかんに起きています。一過性のものではなく、きちんとその地域に根づいた活動にするためには、その土地との縁や強い動機づけが必要になると思います。まず、岩谷さんとこの平沼・高島エリアの関わりについておうかがいしたいのですが。

岩谷 私は保土ケ谷の峰岡町の生れです。横浜駅から相鉄線で少し行った「星川」が最寄り駅ですね。横浜生れ、横浜育ちです。小学校は山手にある横浜国立大学附属横浜小学校に通っていたのですが、父親の経営する岩谷学園が平沼にあることもあり、学校が終わると実家ではなくこの街に帰ってきて、塾に行く用意をして出かけるというように、小さな頃からよく平沼・高島を中心とした地域で遊んでいました。

ただ、子供ながらに、そごうから出て東口へ抜けていく通りは、どこか寂しい感じがあるなと思っていて。それは土地柄ということではなく、単純に人の数。横浜駅に来られたことのある方ならお分かりになると思いますが、横浜駅の西口はすごく栄えています。岡田屋さんや高島屋さん、数年前には三越の跡地にヨドバシカメラもオープンしました。相鉄ジョイナスさんをはじめとした駅ビルの機能、歴史のあるダイヤモンド地下街も充実し、シェラトンホテルもあります。

幼い頃に主に使っていた相鉄線の改札口は西口です。相鉄線の近く、西口はこんなにも栄えているのに、東口は閑散としている。どうしてだろう、こっちの通りもイルミネーションでパーッと明るくしたり、もっと人でたくさん賑わうようにできたらいいなと、子供のくせに思ってたんですよね。でも、それは本当にそうなればいいな、という子供のなんとなくの願望で。だから[urayoko net]をやっていることの根っこには、そういう私の原風景があると思います。

—— 子供の夢ではなく、大人の人間として地域活性化に関わることになったきっかけは?

岩谷 高校卒業後は多摩美術大学に入学しました。生産デザイン学科テキスタイル専攻に進学したのですが、学生時代にアルバイトをしていた飲食店で、「美大生だから」という理由でメニューをつくらせてもらったんです。それがとても好評だったので、デザインの道に進むことにしました。いま思うと、店長もお世辞でお褒めてくれたのかもしれないですけど(笑)。でも、その勘違いのおかげでこうしてデザイン会社を経営することになったので、幸福な勘違いだったのかもしれません。

■ふたつのイベントプロデュースと事務所の移転

岩谷 卒業を迎える2004年の1月に、個人事業主として正式にセルディビジョンを創業しました。そして創業から2年経った頃、イベントの企画に携わることになったんです。「Soalon Festa」という布の展示会。アパレルデザイナーと、福井の布屋・畑岡株式会社がコラボレーションするイベントのプロデュースを、2006〜2008年、2010年とやらせていただきました。会場は東京の青山にある「ふくい南青山291」という場所で、規模としては200平米ほどです。とにかくはじめてのイベントプロデュースでしたから、難しさも含め、たくさん勉強をさせていただきました。

そういう経験をした後で、カメラマンの齋藤久夫さんと出会ったんです。齋藤さんはずっと横浜の野毛地区の活性化をに携わっている方で、シェアオフィスの運営もされています。齋藤さんとお付き合いさせていただくうちに、地域活性化というものに本格的に惹かれていきました。

その後、ヒルトンホテルの地下にあるアーケード街「ヒルトピア」を齋藤さんと一緒にプロデュースするご縁に恵まれました。ヒルトピアでは会場のイベントを企画したり、印刷物をデザインしたり、とにかくいろいろなことに携わらせていただいています。そうして経験を重ねて、少しずつノウハウが出来てきました。それがいまから2年くらい前ですね。

そうして力を蓄えていっているところに、会社を移転する話がもちあがってきました。父の経営する岩谷学園が高島町のビルにフロアをもっているのですが、そこを借りていた学習塾が他へ移ることなった。

セルディビジョンは、創業当時は平沼に事務所を構えていました。その後は横浜駅東口の北幸というところに移り、小さなマンションの一室を利用していたんです。父も、ご縁があって学校を開かせてもらっているこの街のことを考えていて、せっかくだったら地域の貢献につながることができる人に入ってもらいたいと考えていたようで、私に話をもちかけてきた。やってみるか、と。いきなり大きなオフィスを構いえてやっていけるのか、正直不安も大きかったです。けど、いろいろ悩み抜いた末、移転を決めました。どうしてかというと、シェアオフィスをやりたかったから。